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2011.6.28〜30(火〜木) 不思議生物・カイエビ


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX
 
 子供の頃、泥の中に隠れていた小さな二枚貝がゆらゆらと泳ぎ始めたのを見て、貝って、赤ちゃんの時は泳ぐんだ!と思ったことがあるが、今にして思えば、カイエビだったのだろう。

 ここ数日はメダカの卵の孵化の瞬間の撮影に付きっきり。孵化、羽化、脱皮の類の撮影は、正直に言えば、何度やってもツライ。
 メダカの場合、卵が産み落とされてから孵化をするまでの時間は、積算温度で250度、つまり気温25度なら10日とされているが、実際には、隣り合った2つの卵の孵化が一日ずれるような場合だって珍しくないし、それなりの時間、待機しなければならないのだ。
 だから、上手に気晴らしをしながらその瞬間を待つのが肝心。
 今日は、その待ち時間に、カイエビを撮影してみた。
 
 
 

2011.6.25〜27(土〜月) 準備


CanonEOS5D MP-E65mm F2.8 1-5×マクロフォト
 
 毎年恒例の三人展(野村芳宏・西本晋也・武田晋一)は、準備が撮影の忙しい時期と重なると、さすがにキツイなと感じることもある。
 だから、適当に写真を選んで、エイッと片付けてしまおうかと一瞬考えたりもする。
 だが良く考えてみれば、大した苦もなく予定通りにやり遂げられるようなことは、どれだけそれを積み重ねたところで、自分にほとんど何の変化もおきないのだから時間の無駄なのであり、頭を悩ませるからこそ意味がある。

 一人10点ずつ持ち寄って、三人で合計30枚の写真を展示するが、僕は毎年、今一番自分がまとめたいテーマの中から、その10枚の写真を選ぶ。
 今年は、趣味として撮影した写真の中から、それを選ぶことにした。
 いずれも、まず売れる訳がない写真ばかり。ある、おデブタレントさんが、テレビの番組で、「体に悪いものほど美味しい」とおっしゃったが、写真は売れもしないものほど面白い。
 月に4〜5日でいいから、今一番行きたい場所で、趣味として、自分が好きに写真を撮りたいものだと思う。
 ここ数年、そんな時間は月に4〜5日どころか、年に4〜5日もない。
 
 
 

2011.6.20〜24(火〜金) やっぱり仕事はツライ




 僕は通販が大好きで、今やごく普通に売られている文具なんかでも、通販で買ってしまう。九州にはジャパネット○○をはじめ、テレビでコマーシャルをしている通販の大きな会社が多いが、九州の人間の指向なのだろうか?
 人混みが嫌いなので、町へ行きたくないというのもあるが、お店に行って、自分が探しているものが見つからなかった時に、実にガッカリしてしまうのだ。

 逆に、人をがっかりさせたくない、と思う。
「こんな写真ありませんか?」
 と求められた時に、
「ありません。」
 と言いたくないし、よくリクエストが寄せられるシーンに関しては、たくさん写真を品揃えしたい、と思う。

 ところが、実際に撮影に取り組んでみると、たったこれだけしか写真が撮れんのか!と自分の仕事量の少なさに心底がっかりさせらるし、ここのところはその焦りがひどい。
 そうした焦りは、無駄を省き、工夫をして効率を上げる努力の動機にもなるから、大切にしなければならない。一方で、それで精神的にやられてしまうようでは話にならないから、焦りは上手く管理しなければならない。
 これくらいなら耐えられるかな、と自分で考えている限度よりも、ちょっときびしいところに線引きをする。それが僕の目安だ。
 「効率を上げること」と「質を上げること」を、あたかも二者択一であるかのように言う方がおられるが、僕は、基本的には同じことだと思う。
 もしも人の倍の作業ができる能力を持っているなら、人と同じ時間で同じ内容の作業をしたら、人の倍丁寧な仕事をしたことになる。

 さて、やっかいな撮影が2つばかり残った。
 1つは両生類で、1つは魚の卵。
 両生類の方は野外での撮影で結果を出せなかったので、事務所の一角に、撮影セットを準備中だが、草が伸びるのが予測よりも遅く、期限に間に合うかどうかきわどい。
 魚の卵の方は、温度管理をして、成長の速度を正確に予測した上で、狙っているシーンを効率よく捉えたい。
 そのために一部屋、エアコンをしばらく入れっ放しにすることにしたのだが、やはり無駄が多い気がしてきて、小さな恒温器を1つ購入することにした。
 もちろん、通販で。
 実験用の精度の高いものは高価で到底手が出ないが、10000円なら、ちょくちょく役に立ってくれるだろうし、通常生き物を扱う際の基準の温度である25度に管理するくらいなら、電気代も大したことはないだろう。


 
 
 

2011.6.20(月) 健康診断

 健康診断を受けた。
 レントゲンの検査でバリウムと下剤を飲み、今日はうかつに外出することができなかったため、スタジオでの撮影がはかどった。



 スタジオでの撮影は凝ればきりがないが、僕の場合は自然が好きなのであり、スタジオで写真を撮るために自然写真家という職業を選んだわけではないのだから、ほどほどにしておく必要がある。
 一方で、あれは好き、これは嫌い、などと野暮なことを言わないのだがプロ。それは我慢をするということではなく、自分を楽しくするためのコツを知っていて、何でも楽しくできてしまうということ。
 仕方がないから写真を撮っているというのは論外であって、スタジオはスタジオで楽しく写真を撮らなければならない。
 そのためには、やっぱり本気で取り組む必要がある。
 おのずと、お金と時間をとことんまで注ぎ込んで究極を目指すような本気になるのではなく、なるべく少ない物と時間で、にもかかわらず高品位な写真を撮ることができる工夫を、本気で追求することになる。
 つまり、ただ横着をするのではなく、痛快な横着を考え出すこと。
 今日は、撮りにくい被写体を、なるべく手間をかけずに撮るための工夫を考えながら、撮影を進めた。


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX ストロボ

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX ストロボ
 
 
 

2011.6.19(日) 物・レーザーポインター

 

 ホタルが飛び交う夜の景色を撮影する際に、真っ暗な風景にピントを合わせるのには案外苦労をするものだが、先日、ヒメホタルの撮影に出かけた際に、知人が持っていたのはレーザーポインターだった。
 まずは、ピントを合わせたい位置をレーザーポインターで指示しておき、その明かりにピントを合わせる。
 小さな光であり肉眼ではピント合わせが難しいから、そんなケースではカメラのオートフォーカスを使って機械的にピントを合わせた方が、正確にピントが合う。
 明かりが弱いレーザーポインターの場合は、カメラのオートフォーカスが作動しない場合もあるだろうが、僕が購入したコクヨのより明るいと記されていた製品(画像右)では、ニコンD700のオートフォーカスはちゃんと作動してくれた。

(画像右)


 その手法を教えてくれた知人も、人がそうしてピントを合わせているのを見て、真似をしてレーザーポインターを購入したようだ。
 レーザーポインターと言えば一般的には赤色の光を発するが、中には緑色のものもあり、赤よりも視認性がよく見やすい。その日、緑のレーザーポインターを人が使用しておられるのを見たが、ポインターの光跡が暗やみに緑色の線として浮かぶ上がるくらいに良く見えた。
 緑のものは高価で、名の知られたメーカーの品質が確かなものは、10000円を下ることはないようだが、ネット通販で探してみたら1800円という激安価格で緑色の光のものが売られていたので、1つ購入してみた。
 保証期間は一週間と書いてあるところを見ると、長持ちすることはあまり期待しない方がいいのだろう。
(画像左)
グリーン レーザーポインター 緑色 ペン型 出力1mW
→ 
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B004YN7KYS/ref=oss_product
 
 
 

2011.6.15〜18(木〜土) 続・自然と文化


NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

 某県に、一面に梅や桃や桜が植えられた場所があるという。誰だったか忘れてしまったけれど、著名な写真家がその景色に感激して、
「○○に桃源郷がある。」
 と言ったとか。
 確かに、見事に桃色に染まった風景写真を見たことがあるが、それはそれは見事なものだった。

 けれども、それを日本人の自然を愛する心と思い込まれては困る、という話は先日書いた。人が品種改良をした木を植えることが、自然であるはずがない。
 また、そこには本来は別の木が生えていたはずであり、それらを除外して人が好きな木を植える精神を愛というのも、どうにも違和感がある。
 それを愛といえる人は、おそらく、そこには元々別の木が生えていたことが想像できていない人だと思う。
 前回も書いたように、別にそうした桃源郷を作ることを否定するつもりはない。だが、そこには本来は別の生き物が住んでいることくらいは、知っておく謙虚さが欲しいと思う。
 
 もっとも、それを分かるのは難しいだろうな、と思う。なぜなら、今はそこにそれらの生き物が見られないのだから。
 それを分かるにはには、本来日本の自然とはどのようなものなのかについての知識や理論が必要になる。
 愛情こそが大切、と知識を二の次に考える方が時々おられるが、自然を愛する精神は、ちゃんとした知識や理論と組み合わせってはじめて発揮されるものであり、知識や論理は軽視されていいものではない。
 前回も書いたように、桜を楽しむ文化を否定するつもりはさらさらないし、僕だって、桜に限らず、季節を象徴する植物には、それが野生であるとか、人が植えたものであるとかにかかわらず、カメラを向けることがある。
 遠賀川の土手を自宅から事務所に向かうと、土手を川とは逆側に下ったところにある民家の庭先に、大変に美しいあじさいがある。
  
  
 

2011.6.15(水) スタジオにて


NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX ストロボ

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX ストロボ

NikonD3X AF-S VR Micro-Nikkor ED 105mm F2.8G(IF)SILKYPIX ストロボ

 サッカー日本代表に選ばれて間もない若い選手が、代表入りの感想を求められた際に、一緒に練習をしてみたら、遠藤選手(ベテラン)があまりに上手いんで驚いた!あり得ないくらいに正確なんです、というような話しをするのを以前テレビで見たことがある。
 若手とはいえ代表に選ばれるような選手。今更、遠藤選手が上手いなんで、普段他の選手を見てないの?というような気持ちにならないでもないが、同じチームに属して一緒にやってみると傍から見るのでは分からないテクニックが見えるのだろう。
 僕は、スタジオで撮影される生き物の写真を、以前は安易な方法だと思っていたのだが、実際にやってみると、これが難しいのなんの!傍から見るのと実際にやってみることの違いを痛感。
 プロとアマチュアの技術の差は、当初僕が思っていたよりもはるかに大きく、ただ数多く写真を撮っているだけではまず達することができない域が間違いなく存在することを思い知らされた。
 それと写真がいいかどうかは別問題であって、技術力があれば必ずしもいい写真が撮れるという訳ではないし、アマチュアの方が、プロを超えるような、人の心を打つ写真を撮ることはよくあること。
 だが、一枚の写真を撮る際にどこまで分かって撮っているのかに関しては、プロとアマの世界には大きな隔たりがあるようだ。
 僕は、スタジオで撮影した写真で随分の多くの仕事をこなしてきたが、それでも、先輩が撮影した写真の上手さが、今頃になってようやく分かることもある。

 例えば、風景写真を撮る際には、近景、中景、遠景にそれぞれポイントになるものを見つけ、それらの組み合わせによって画面を構成し奥行きを表現するのは、イロハのイである。
 それはスタジオにも当てはまり、近く、遠く、その間という風に、最低3つの距離のあるものが1つの画面に写り込んでいなければ、奥行きのない写真になる。
 そして、実績のある人のスタジオ写真を改めてそんな目で見てみると、その写真が好きかどうは別にして、確かにそんな画面構成になっていて、そのことを理解したた上で写真が撮られていることが分かる。
 つまり、奥行きとは何かをちゃんと語れるということ。
 他にも、背景がぼけるとはどんな状態なのかなどといちいち説明できるということであり、それができることが、写真が撮れるというなのだ。
   
   
 

2011.6.12〜14(日〜火) 自然と文化


NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-200mm F2.8G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S VR Zoom-Nikkor ED 70-300mm F4.5-5.6G(IF) SILKYPIX

NikonD3X AF-S NIKKOR 24-70mm F2.8G ED SILKYPIX

 桜を愛でることが、日本人の自然を愛する心の表れなどとよく耳にするが、僕は、どうもにも違和感を感じて仕方がない。人が品種改良をした植物を人が好きな場所に植え、それを観賞することが自然を愛することだとはどうしても思えないのだ。
 それなら、川に錦鯉を放して観賞すれば、それが自然を愛することになってしまう。
 それは、観賞ではなくて、干渉ではなかろうか。現に、「鯉を放しています。鯉を捕らないで。自然を大切にしましょう」といった看板を何度か見たことがある。
 どちらかというと、人のエゴであるような気がしてならない。
 桜を愛でることを否定するつもりはないが、それが自然だと言われると困る。
 そうした、自然という言葉の定義のルーズさが、自然の森を切り開き、公園を作って、それで自然を愛したつもりになる愚行に結びついているような気がしてならない。

 桜を観賞することは不自然なことであり、エゴであり、間違えていると言いたいのではない。
 僕は、それが人間という生き物であるように思うし、むしろ、そうしたエゴ=悪と単純に結びついてしまう人の方に、怪しさを感じる。
 例えば今の季節なら、ホタルの撮影に行ってフラッシュの光を光らせると、
「ホタルの生態に悪影響を与える。」
 などと言い出す人が現れる。
 確かに、厳密なことを言えば、フラッシュは光らせるよりは光らせない方がいいだろう。そう言う意味で、フラッシュを使用して写真を撮ることはエゴかもしれないが、通常の撮影の数発程度の発光では、まずその手の影響はない。
 そうしたクレームをつける人たちはホタルばかりを見て、人間という生き物を、自分自身を良く見ていないような気がする。
 その人が帰宅をする際に点灯させる車のヘッドライトに、いったい何匹の昆虫が飛び込んで死んでしまうことだろう。それなら、その人もホタルの観賞をやめるべきだと言える。
 自分を見つめない人ほど、怖いものはない。
 フラッシュの光が人の迷惑になる、というのなら良く分かるし、付近に人がいるのに発光させるのは、無神経なことだと思う。

 桜以外にも、季節を象徴する植物はたくさんあるが、大抵は品種改良をし、人が植えたものであることを思うと、人間って人工が好きだなぁとしみじみ思う。
 世間ではそれを、文化という。
 文化は文化で愛せることが、僕は健全な生き方だと思う。
  
  
 

2011.6.10〜11(金〜土) 田畑







 一匹の白いチョウを、他が狂ったように追い回す。モンシロチョウの活性が高く、ついカメラを向けてしまった。
 撮影した画像をあとで見てみたら、モンシロチョウに追い回されているのはスジグロチョウだった。
 田んぼに降りて、何やら汁を吸っている集団も見られた。
 
 田畑で撮影の仕事をするには、最低限、付近の農家の人たちと顔見知りになる必要がある。だから、なるべくなら余計な口をききたくない性質の僕も、その時ばかりはたくさん人と話をするし、必要以上に同じ場所に何度も通う。
 僕が今通っている田畑の場合、作業をしておられるのは大抵元サラリーマンであり、お勤めをすでに定年した方が多い。
 いったいなぜ農業を?と尋ねてみると、元々は代々続いた農家なのだそうだ。畑で作っている果物はともかく、米は若干の赤字になるそうだが、先祖代々の土地を放っておくわけにはいかないから、という答えが返ってくる。
 その1つ下の世代は?と言えば、一度も農作業の経験がなく、故郷を離れ遠くに住んでいるので後継ぎにならないことは確定的で、農業では利益が上がらないことと相まって、将来に希望がないのだという。
 みなさん、口をそろえておっしゃるのは、農業はキツイということ。 
 サラリーマン時代の定番だった夜の晩酌なども今では楽しむゆとりもなく、夜は横になったが最後、電気もテレビもすべてつけっぱなしで丸太のように眠り、翌日、奥さんに怒られるのが今や日課なのだという。

 そんな事情だから、稼がないかんという感じはなく、畑の野菜は虫食いだらけで、見たこともないくらいに多くの白チョウが飛んでいる。
 
 
 

2011.6.9(木) 更新

 ここのところ多忙で遅れましたが、5月分の今月の水辺を更新しました。
 
 
 

2011.6.5〜8(日〜水) フナムシ



 どんなに生き物が好きでも、どうしても好きになれない奴がやっぱりいるもので、フナムシなどは本当に気味が悪い生き物だなぁと思う。
 そんな時は、まずは偏見を捨てることが大切で、どこか好きになれるところはないか?と探してみる。
 無理をするのとはちょっと違う。これは真面目な人によく見られる傾向だが、例えば、フナムシも生態系の一員であり、大切な存在であって・・・などと自分を理屈で抑え込んでも、それは所詮自分に嘘をついているに過ぎず、その手の無理は、いずれ破たんする可能性が高い。
 偏見を捨てるとはちゃんと物を見ることであり、自分に嘘をついて分かったふりをするのとは、むしろ正反対のことだと言える。
 相手を良く見て、ちょっとでもつぶらな瞳をした奴にカメラを向けてみたり、



 ちょっとでもきれいな色をしたやつにカメラを向けてみたりしながら、とにかくじっくりと相手を見る。
 カメラは、じっくりと相手を見るには、とてもいい道具だと思う。



 もちろん、それでも好きになれないものだって、やっぱりある。
 それはそれで仕方がないし、嫌いなものがあるから、好きなものもあるのだとも言える。
 山口県へ、ホタルの撮影に出かけたついでに、瀬戸内の海辺を歩いてみた。
 
 
 

2011.6.4(土) 備忘録

 ギンヤンマの産卵
 田んぼの水入れ
 ヒメホタル

 今森光彦さんの著書 『昆虫記』 の中にはカレンダーがあって、一日につき写真が一枚と、その写真のシーン以外にその日に見られた自然が文章で箇条書きにされている。
 僕は、以前それを真似ようと試みたことがある。
 だがすぐに面倒になってしまい、ひと月もしないうちに投げ出してしまった。今森さんって、まめな人やなぁと思った。
 ところが最近、よく考えてみれば、自分も同じようなことをやっていることに気がついた。
 僕の場合は、自然のカレンダーとしてではなく、来年以降の撮影のためのデータとして、小さな写真付きの記録を残すことにしている。
 例えば、田んぼに稲が植えられると、その稲にギンヤンマが卵を産み付ける。その場合、周囲にすでに田植えが終わっている田んぼが多いと、ギンヤンマが分散してしまうので的が絞りにくいし、逆に、ある田んぼにだけ稲が植えられているような状況があると、その狭い範囲にギンヤンマが集中する確率が高くなる。
 だから、ある地区の田んぼに水が入る日はいつか、あるいは稲が植えられる日はいつかなどを記録しておく。

 いや、もしかしたら今森さんも、備忘録として残している記録を、カレンダーのような見え方になるようにまとめたのではなかろうか。
 『昆虫記』は名著だと評価が高いが、名著にもいろいろなタイプの名著があり、この本の場合は、実に地道な撮影の積み重ねであって、これが一見真似できそうで、案外真似が難しい。




 

2011.6.1〜3(水〜金) 感覚と理屈

 人は理屈よりも感覚が大切だ、という方もおられれば、いや理屈が大切だという方もおられるが、感覚が大切な時もあれば理屈が大切な時もある。どちらか1つに決めようとするのは愚ではなかろうか。
 感覚が大切だと主張する人は、大抵は理屈が好きではない人であり、それはしばしば、感覚が大切という大義名分のもとに自分が嫌いなもの(理屈)を遠ざけようとする一種の怠け心であり、また逆に、理屈が大切だという人にも同じことが当てはまる。
 感覚が求められる時には感覚を、理屈が求められる時には理屈を。肝心なのは、いつ感覚が大切でいつ理屈が大切なのか、その判断がちゃんんとできることだと僕は感じる。


  



 
 これまで何度となくチャンレジし、そして投げ出してきた田んぼ。今回も、僕の心の中は、早くも危うい感じになってきた。
 何か、心のどこかで迷っている。
 武田家は僧侶の家系だ、と父から聞いたことがある。なるほどなぁ。大抵日本人は、先祖を遡れば農家に行きつくなどと言われているが、僕の先祖は父の言うとおり農家ではなく、そして、僕は田んぼの撮影には向かないのではなかろうか、などと迷信に近いことを考え始めたりもするのだ。
 こんな時には、感覚に頼るのはよくない。何か感覚に合わないとか、なにか乗れないなどと言っていたら、永遠に「田んぼ」というテーマをまとまることはできないだろう。
 こんな場合、冷静な時に合理的な計画を立てておき、迷いが生じている時にでも、それをゴリゴリと進める鈍感さと、機械のような前進力が必要だ。
 さて、この春から頻繁に出かけている近所の田んぼに、水が入った。
 
 
   
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2011年6月分


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